絶望しないための

読書記録と日記を書いています。

2024年12月2日(マカオへ渡航)

2024年12月2日。 (実はこれを書いているのは次の日の昼。昨日は疲れ果てて寝落ちしてしまい書けなかった。しかし日記を継続したいので2日が今日という体で書いていく。)

今日は国際学会のためマカオ渡航。 朝9時25分発の便に乗らないといけなかったので、前日から不安ではあったのだが、案の定電車を間違え乗り過ごしてしまった。

ちゃんと準備しなかったせいで、また痛い目をみた。 というのも、朝9時25分発の便は指導教官から提案されたものだったのだが、別に昼の便に変えてもらうこともできた。 あるいは、京都駅発関空行きの特急はるかを前もって予約していれば余裕をもって到着できたし、電車を間違えることもなかっただろう。

日頃から「まあ当日何とかなるだろう」と適当に生きていると定期的に痛い目をみる。 この楽観主義?は昔よりはましになっている気はするが、まだまだ普通の人のレベルには程遠い。 漠然とした不安は抱きがちなのに、生活の具体的なことに関しては楽観主義というのはどういうことなんだろうか。 これでは不安が生存のために全く機能していない。 生物として欠陥品もいいところである。

自虐はこの辺でやめておこう。 こういう自虐的な閉じた思考が、自傷的自己愛をもたらすと、最近読んでいる本にも書いてあった。 自分の出来不出来など考えてもしょうがないのだ。

大事なのは、乗り過ごした飛行機のキャンセル料61000円が俺の自己負担になったという事実である。 最悪だ。 せっかく頑張って論文を通して、無料でマカオに来られるはずだったのに。。。

一労働者の故意でない過失が法人ではなく個人の責任になるなんて不当ではないだろうか。 労働者の過失による損失は法人が被るのがあるべき社会のあり方だと思う。 業務に関係のない理由での旅程変更による損失は、社員の自己負担になると所属機関の規約で決まっていたらしいが、そんなことは知らない。 知らされていないのだから。

一時は左翼的な気分になって、所属機関に抗議しようかとも思ったが、すぐに熱は冷めてまあいいやとなった。 闘争が面倒になって泣き寝入りしがちなのは日本人の悪い癖である。 まず、闘争の仕方を知らない。 こういう出来事があったときに、制度を変えようとするのではなく制度に合うように自己を訓練するというのはいかがなものか。 このような規律訓練的な自己は権力を強化するばかりである。 来年からフランスに住む予定だが、ぜひとも反権力・労働闘争の作法を身に着けたいものである。

しかし今日はいいこともあった。 人の純粋な親切心に何度も触れたのだ。

最初は飛行機を降りるとき。 気づいたら座席上の棚から俺のキャリーケースがすでにおろされていた。 おそらく隣の通路側の座席に座っていた男性がおろしてくれたのだろう。 俺が気づいて「Thank you」というと、彼はOKサインを顔の前に作って、微笑み返してくれた。 その瞬間、とてもあたたかい気持ちになった。 そこにあったのは、まったく形式的でない、純粋な善意と感謝の意の応酬である。

次はホテル行きのバスに乗車するとき。 俺が運賃の支払い方がわからずまごまごしていると、後ろから乗ってきた女性が代わりに運賃を支払ってくれた。 そのあと俺が、払ってくれた分のお金を返すよというと、微笑みながら「No worries」といって断られた。 俺は最大限の感謝の意を示そうと「Thank you so much」と言い、座席についた。 本当にありがたかった。

人の純粋な善意に触れたのはいつぶりだろうか。 普段日本で暮らしていて接する気づかいや感謝は、心からのものというよりも、たいていは常識や空気によって強制されるもののように思う。 こういう体験は異文化交流の醍醐味の一つだ。 お互い文化的なコンテクストを共有していないからこそ、人間の純粋な善意や感謝の気持ちが露出するのである。

彼らの善意の行動に感化され、自分の中にある感謝の気持ちに気づけた。 同時に、逆の立場になったら自分もきっと善意を示せるだろうと、そんな気分になった。