絶望しないための

読書記録と日記を書いています。

2024年12月21日(男性の不安と絶望について)

2024年12月21日。

今日は寮の先輩Aさんと1日過ごした。まず寮の談話室で待ち合わせ、当てもなくおしゃべりしながら近所を散歩。三条のマックで昼食をとり、そのままコーヒーを飲みながらさらに雑談。日暮れ時に店を出てから丸太町のドトールに向かい、紅茶を頼んで、それぞれ読書。夜は寮の談話室で過ごしたかったのだが、寮生以外立ち入り禁止の会議中だったので、コンビニ飯を買ってAさんの家でおしゃべり。午後10時くらいに帰宅した。

Aさんとはよく二人で出かけるのだが、日本の街中には男性が二人でゆっくり過ごせる場所があまりないという話をよくする。例えばカフェにいるのは、一人で作業している人や男女のカップル、主婦のグループが主である。男の集団はあまり見かけない。ファストフード店には男子学生の集団をよく見かけるが、中年以降の男性の集団はほとんどいない。例外は居酒屋くらいではないだろうか。そもそも大人の男性が群れるのを嫌うというのもあるだろうが、街は若者と女性のものという空気があるのは確かだと思う。大人の男性は平日は仕事に勤しみ、休日は孤独に郊外のアクティビティや日曜大工などに興じるというのが一般的なイメージだろう。俺は他人の視線に鈍感なので男二人で街のおしゃれなレストランに行っても何も感じないが、Aさんは場所によっては場違い感を感じるという。歳を取れば気になってくるのだろうか。

こういう、街における男性の居場所の無さというのは、中年男性がコミュニティにアクセスできず孤独になる一因になっていると思う。一方で、大人の男性でもアクセスできる場所が実はたくさんあるんじゃないかとも思う。例えば京都ではカルチャーセンターが充実していて、日々市民向けの公開講座が開かれていたりする。あるいはジャズバーがたくさんあって、中年男性でも音楽好きなら受け入れてもらえる。京都のような都市では独身中年男性でも孤独にならずに生きていけるはずだ。

俺は自分の同世代の男たちが、将来の孤独に不安を感じ人生に消極的になり、数十年続くサラリーマン生活に絶望していることにもどかしさを感じている。また、そういう社会を用意した上の世代を腹立たしく思ってもいる。人々はもっと楽観的に、積極的に、かつ適当に生きるべきだ。将来の孤独のことなど考えなくていいし、サラリーマン生活が嫌ならやめてニートやフリーターにでもなればいい。この瞬間の不安と絶望が、未来に不安と絶望を再生産するということを理解すべきだ。何よりも大事なのは今を快活に、行動的に生き続けることである。そうすれば何をやっていようが生きる道は自ずと開けてくると思っている。仮にどうしようもない孤独と絶望に陥ったとして、それは単なる偶然である。その人がそれまでどう生きてきたかとは関係ない。自己責任論など幻想である。人生は偶然なんだから。未来を自分の力で何とかできると考えることほど傲慢なことはない。繰り返すが、俺たちにできるのは「今」を善く生きることだけである。

不安と絶望の問題についてはこれからも考え続けるつもりだ。今はまだ考えを羅列することしかできないが、ゆくゆくは古典を参照するなどしてもっと強度のある思想に鍛えていきたい。