絶望しないための

読書記録と日記を書いています。

2024年12月18日

2024年12月18日。

今日も昼頃に起床。百万遍でゲバブ丼を買って、研究室の昼食会に参加。研究会に出席し、他の学生の発表を聴き流しながら自分の研究に取り組む。フランス博士のための手続きを進め、研究室の忘年会かつクリスマス会的なものに参加し、それなりに飲酒。深夜は寮の談話室で追いのワインを飲みながらさらに研究。区切りのいいところでやめて、後輩と少し談笑して帰宅。

今日はバイトを休んだので研究と博士の準備に労力を割けた。水曜は研究室のセミナーがあるので研究のモチベーションが上がりやすい。これに合わせて水曜はバイトを休むことにしてもいいかもしれない。

最近、流石に寒くなってきた。周囲の人々が体調を崩していく中、自分はうまく防寒できているなと悦に入っていたのだが、体調に陰りが見えてきた。すでに防寒には気を遣っているから、どうしようもない。ロシアに住む弟に、日本は防寒技術が貧弱だから冬にみんな体調を崩すんだと言ったら、ロシアでも変わらないと言い返された。冬に体調が悪化するのは冬のある地域に住む人間の宿命なのだろう。

日記をつけ始めてよく分かったのは、俺が生活のことばかり考えているということだ。よほど俺は生活に困難を覚えているのだろう。あるいは頭では文化や遊びにこそ生きる喜びがあると考えていながら、本当は文化や遊びにはそんなに興味がないのかもしれない。このブログの目的は書くことで考えることだと最初の記事で書いたが、考えることにも本当はそんなに興味がないんじゃないか、とも思う。

しかしそんなことは考えても仕方がない。言葉による自己理解はかなり自己防衛的で恣意的だというのが、去年精神を疲弊して得た教訓の一つである。アイデンティティの悩みに向き合うのは少なくとも俺にとっては無益だ。考えるなら自己以外のものについてであるべきだ。人生は外向きの思考と行動の両輪で進むのがよい。

内向きの思考を完全に消すことはできないが、考えてみれば日記はそれを行動に転化しているように思う。精神の時間持続性を回復するという効能に加え、また日記の効能を発見してしまった。アイデンティティの問題がLGBT的な本質論に陳腐化し、SNSで流行に流されている現代人は全員日記を書くべきではなかろうか。